繁華街の片隅にある、小さなバーに足を踏み入れたのは、ただの思いつきだった。仕事に追われ、心身ともに疲弊していた僕は、何か変わった刺激を求めていた。
ビールや焼酎、ハイボールではもう物足りない。カラフルなカクテル。どうせなら、ちょっと風変わりなものを頼みたい――そんな気分だった。
カウンターに座ると、バーテンダーが「いらっしゃい」とだけ言って僕を迎えた。
「何か特別なもの、ありますか?」
軽い気持ちで尋ねてみると、彼は一瞬だけ眉をひそめた後、棚の奥から妙に古めかしい瓶を取り出した。ラベルもなく、中には琥珀色の液体が揺れている。
「『アダルトドリンク』です」
バーテンダーは淡々と言った。
「アダルト……?」
「大人だけが飲める特別なドリンクです。現実では決して味わえない体験が得られます」
その言葉に、どこか含みがあった。
「大人だけって、お酒なんだからそんなのは当り前じゃないですか」
僕は愛想笑いと少し大きめの声で答えた。
「大人というのは年齢のことではありません。人として大きな壁を超えてきた人たち。自分の限界に何度も立ち向かった人が飲むことのできる飲み物です」
バーテンダーはジッと僕を見つめ言った。
「……副作用は?」
一応聞いてみると、彼は無表情のまま「自己責任で」と答えた。僕は心から笑った。まぁ、人生なんて大抵そういうものだと思った。僕は誘惑に負けて、ついにグラスを手に取った。
「現実をちょっとだけ忘れたい時もありますからね?」
バーテンダーの静かな言葉が背中を押す。
僕は一口、飲んだ。甘さと苦さが奇妙に混ざり合い、瞬く間に意識が遠のくような感覚が襲ってきた。
次の瞬間、気がつくと、僕は大学時代の教室にいた。片思いの彼女が目の前に座っている。あの瞬間だ。僕が勇気を出して告白し――そして見事に振られた、あの屈辱的な瞬間。
「うわっ、やめてくれ!」
懐かしい顔と、嫌な思い出が次々と現れる。まさか、これは過去の再体験ドリンクか?
次は職場だ。上司が鬼のような形相で僕を叱責している。「君のせいでプロジェクトが失敗したんだ!」と。
「ああ、もういい加減にしてくれ……」
再び景色が歪む。
今度は家族との思い出だ。やはり、ろくでもない記憶が続く。僕が大人になりきれないと罵られたあの日――もう思い出したくもない。
「これ……悪い冗談じゃないか?」
僕は焦り、強く目を閉じた。過去の失敗や後悔の再体験なんて、こんなドリンクはたまったものじゃない。目を開けると、僕は元のバーのカウンターに戻っていた。
「なんだよこれ……過去ばっかり見せやがって……」
僕は呆然とした表情で呟いた。
彼は無表情のまま淡々と答える。
「大人とは、過去に引きずられる生き物ですからね」
「……結局、このドリンクの意味は何なんだ?」
「大人になるというのは、過去を美化する技術を学ぶことです。どうでしたか、先ほどの体験をあなたはトラウマとして受け入れていましたか? それとも自分の糧として美談にしていましたか?」
バーテンダーは薄く笑い、静かに言った。
僕はその言葉に少し呆れた。
「もう一杯いかがですか?」
再びグラスが差し出される。
「いや、結構です」
僕はそのままバーを後にした。
良い経験をしたのかもな。僕はいつもの街の風景を眺めて、そう呟いた。