「こんばんは、先生。突然の訪問をお許しください」
和久井は丁寧な口調で挨拶したが、その目は油断なく周囲を観察している。
博士は少し驚いたようだが、すぐに微笑んで彼を招き入れた。
「ようこそ。どうぞお入りください。確か、先日の学会の会場でお会いした方ですよね。こんな辺鄙なところまでよくお越しくださいましたね」
和久井ともう一度自己紹介を済ませると、博士は自宅兼研究所の中を案内した。
研究所の内部は、予想外に整然としていた。壁には幾何学模様の大きな絵画が掛けられており、どれも不思議な魅力を放っている。
「素晴らしい絵ですね。先生の作品ですか?」
「実は、私の作品です。昔から絵をかくのが趣味で、先日64歳になったその記念に__」
和久井は、それなら高値にならなそうだなとすぐに絵画から興味を失った。
博士が一歩前にでて、自分の絵画の説明を始めた瞬間、コートの中から右手を取り出した。その手には黒光りする拳銃が握られていた。
「動くな」
博士は一瞬戸惑ったが、彼の真剣な目を見て無駄な抵抗をするのはやめることにした。
両手を上げて答える。「私は貧乏な研究者です。金目のものなんてありませんよ」
「研究成果を出せ。金になるのだろう?」
和久井が博士をターゲットに選んだのは、学会の会場に潜入したとき、億万長者にもなれると研究の進捗を語っていた姿を目撃したからだった。
下見に来てみれば、民家を改造した古びた研究所に一人で住む初老の男性。この男こそ最適な相手だと彼は確信した。
民家を改造した古びた研究所。その日も、博士は一人で黙々と研究を続けていた。玄関のチャイムが鳴り、ドアを開けると、目の前には痩せこけた青年が立っていた。
博士はふと微笑み、まるで夢を語る少年のように目を輝かせた。
「お金になるか? それはもちろんです!ですがあなたには決して教えたりしませんよ」
「その態度、気に食わねぇな」
博士を拳銃で殴りつける。床に倒れ込んだ彼の手と足をロープで縛った。
和久井は研究所の中をくまなく探し始めた。しかし、博士の様々な研究に関する資料は専門的で、素人には何が価値のあるものか全くわからない。
金を赤く変色させる技術の研究などを見て、こんなものに価値があるのかとさえ思った。どんなに部屋を物色しても、目ぼしいものは見つからなかった。
「クソッ……おい、じじい」
焦りと苛立ちが顔を引きつらせ、その動作も乱暴になった。和久井は博士のほうへと向いた。博士の姿が消えていた。
「あいつ、どこへ行きやがった」
部屋から出ていくような音はしなかったし、手と足はロープで固く結んだ。移動できたとしても大した距離になるはずがなかった。
なのに、先ほどまでいたはずの博士は数十分の内に部屋から姿を消してしまっていた。和久井は研究所を四方へと走り回り、もう一度姿がいないことを確認すると、近くにあった大きな絵画を殴りつけた。
「なんだ、この絵…」
絵画は破れなかった。彼の手は絵の表面をすり抜け、まるで水の中に手を入れたかのように中へと沈み込んだ。
驚きと恐怖で手を引き戻した彼はその瞬間、背後から冷たい金属の感触が後頭部に押し付けられるのを感じた。
「両手をゆっくり上げて、膝をつけ」
低く鋭い声が響く。驚きと恐怖が和久井を襲い、彼は震える手で拳銃を落とし、命じられるままに両手を上げて膝をついた。振り返ると、そこには警官が銃を構えて立っていた。
さらに数人の警官が研究所に入ってきている。
和久井は観念し、目を閉じた。
「やれやれ、ひどい目に遭いましたね。」
その声に和久井は目を見開いた。博士が、何事もなかったかのようにそこに立っているのだ。
「な、なぜ!」
次の言葉を紡げない和久井は、今の不可解な状況の説明を目で訴える。博士はにやりと笑って強盗に近づいた。
「不思議そうですね。実は、あの絵画が私の研究成果なんですよ。」
「絵画…?あの浮き島に立つ塔の絵のことか?」
博士は誇らしげに頷いた。
「そうです。あの絵はただの絵ではありません。ホログラム技術を使って、あの絵の中に入る体験ができるんです。もちろん、絵の中に入ったように見えるだけで、本当は何も変わっていません。
まるで別世界に入り込んだかのように錯覚させる。それが私の研究です。」
「そ、そんな…」
和久井はその場で崩れ落ちるように膝から力が抜けた。あの奇妙な感覚は、まさに博士の研究の成果だったのだ。
「そして、私はその絵の中に入り、裏口から外へ抜け出したんですよ」
博士は、まるで巧妙な罠にかかった獲物を見下ろすかのように小さな笑みを浮かべ、和久井は力なくうつむいた。