俺が刑務所に入るのは二度目だった。
今日収監された牢は周りに人の気配がなく、初めて収監された牢が恋しくなるような冷たくさみしい場所だった。
部屋を見渡す。牢は6畳程の空間にベッドとトイレ、それに天井スレスレに小さな穴(窓替わりなのだろう)があった。
「これじゃあロクに日の光も入らねえな」
愚痴をこぼして、ベッドに飛ぶように身体をあずけた。
ギッミシッ
「…………」シャバでは聞かないベッドの悲鳴が響いた。ベッドは丁寧に扱おうと心に決める。
ベッドから鉄格子の先を眺めていると、鉄格子の下の地面がえぐれているのに気が付いた。深くはない。深さ3センチほどのコンクリートがなくなっていた。20本はあるだろう鉄の棒の下が均等になかった。
棒の下を確認しようと近づいていく。
「家族が恋しいかい、あんちゃん」
声が聞こえた。足元に向けていた視線を正面に戻し、鉄格子に手をかけて牢の外に目をやった。薄暗い通路に人の気配はない。
「手離してくんねえか」
耳に下で話されるような感覚に驚き、勢いよく後ろに倒れ込む。
「なんだよ。なんなんだよお前!」
心臓がシンバルを叩く猿のおもちゃよりも早く鼓動する。異質なものに、これまでにあったことのない不確かな気持ち悪さに襲われた。
鉄格子から声がした。電子音声でもなく、スピーカー越しの声でもない。ただの鉄の棒の羅列からその声はした。
「慌てんなよ。鉄の棒がしゃべったら悪いのかい」
「気味が悪い。何か機械が取り付けられてんのか? そっから喋りかけてんだろ」
「それでいいよ。どう考えるかはあんちゃんの勝手さ。それにしても、ふっふふ、ここに来るやつはみんな同じことを考えるな。思考が一緒。」
機械からの音じゃないことは直感が理解していた。だが喋る鉄格子という現実味のないものを受け入れられなかった。
一つ、二つと深呼吸をして冷静さを取り戻そうとしてみる。
「なぜ話しかけてきた。目的は?」
「おれってのはさ、お話が聞きたいんよ。あんちゃんがこれまでにあった酸いも甘いも織り交ざっている生のストーリーをさ」
鉄格子は俺に自分語りをさせたいらしかった。捕まってここにくるまでの経緯を俺の口から話せと。語りによってはご褒美があるらしい。
「こんなところに一人で無言でいたらおかしくなるぜ。そのためにおれってのはここに存在しているんだ。あんちゃんが変にならないように話し相手としてさ。人じゃ駄目だぜ、手を組んで悪さを考えちまうから。手がないやつじゃなくちゃ」
確かに、と思った。喋る相手がいたほうが俺としても助かる気がした。生来俺はおしゃべりなところがあったからだ。この先数十年何も喋らないでいたら喋り方を忘れる。そんな恐怖を感じはじめていた。
俺は小さいからの思い出をしゃべりだした。親父が消えたのは小学生のころ、それからお袋が女手一つで育ててくれたこと。
2時間、3時間と時間がたつ。時計はなく体内時計でもう時間がわからなくなったころ、俺は捕まるまでの、直近の出来事に辿りついた。
「捕まるのは二度目なんだ。最初はさ友達と飲んでて、つい気が大きくなっちまって。人の車を借りて運転しちまったんだよ。そんでガードレールに激突。俺は軽いけがで済んだが、助手席に座ってた奴は重傷でさ。命に別状はなかったんだが、もちろん警察沙汰だ。飲酒運転、車の窃盗に破損……おまけに未成年で免許も持っていなかった」
「役満だなー」
「バカなだったよ、今はただ恥ずかしい。……そんで捕まってさ」すっ、と鋭く息を吸う。一つの嘘つくために脳に酸素をおくった。
「自分で言うのもなんだが真面目に生きるようになったんだ。刑務所では仕事に励み、トラブルも極力避けた。一人にしちまったお袋に顔向けできるように生きるために」
硬い地面をえぐる音がする。鉄格子が離れていく。
最初は見間違いかと思った。だが数センチ、微かにだが間違いなく鉄格子が動いていた。
この鉄格子に話しかけて気付いたことがある。こいつは感動するごとに動いて行っている。こいつの琴線に触れる時だけ少しだけだが動くのだ。
「で、どうした?」
「ああ」鉄格子から聞こえる声色が明るい。俺の話に興味を示しているのは明らかだった。
鉄格子と横の壁の隙間が開いて行くのが見える。こいつを感動させ続ければ、あの隙間から逃げられるかもしれない。
「ある日、母親から手紙が来たんだ。親からの手紙なんて初めてでさ。……中身はぞっとするものだった。
今でもあの時を思い出すと鳥肌が立つんだ。お袋が病気になったことが書かれていた。俺の刑期が終わるころにはもうこの世にいないからって、俺の心配をする文章がおくられてきたんだ」
心配したのは本当だった。病気の親を心配しない子どもはいない。ただ、鳥肌が立ったのは別の理由があった。
「つらいな」
「ああ。脱獄しようって決めた。そっから3年で計画を立てて実行。脱獄はうまくいったよ。といっても脱獄の計画は同じ房の連中が考えてくれたし、俺はやつらの計画に一枚かんだだけなんだけどな」
発破をかけてやった。連中はその気になり行動を起こした。つかまったやつもいたが、俺は一番リスクのない役回りだったのもあり無事脱出することができた。
「泣ける話じゃないか」鉄格子はまた少しだけ離れていく。
涙ぐむような声が聞こえる。いつでも逃げられるように隙間の近くへゆっくりと移動した。
「俺はお袋のもとに向かった。お袋は激怒するだろうが、くたばっちまう前に会いたかったんだ。無事再会したよ…………」
「どうした?」
「いや。それからはお袋が死ぬまでひっそりと暮らしたよ。最期を看取って、でっまあ、地元を離れようとしているところを警察に捕まった。ふぅっ。どうだ、語ってみるとドラマチックかもな」
ははっ、と笑ってみせた。生きていてこんな笑い方をしたことがなかった。
ガッガッガッ
勢いよく鉄格子が迫ってきた。鉄の棒が鈍い音をたてる。俺は慌てて後ろに下がった。
「嘘はいけねぇな、あんちゃん」
鉄格子は元の位置を超え、部屋の1/3まで動いた。部屋が窮屈になり、呼吸もどこかしづらさを感じる。
「おい、なにしてんだよ」嘘という言葉に心臓がまた早くなった。
「狭い狭い人間だ。心が、器が、狭いんだな」ゆっくりゆっくりと鉄格子はこちら側へ侵略を続けている。
「この独房に入るやつはどんな奴だと思う。なんで話し相手が必要なんだと思う。……それはさ、ひとりもんだからさ。家族のいないやつさ。でも、ただいないんじゃないぜ。身内を殺して一人になったやつのための牢。それがこの場所なんだ」
声は冷たく、無機質な語り口調だった。
”身内を殺して一人になったやつ”その言葉が頭の中をスカッシュボールのように何度も跳ねる。ウソがばれた。
手紙にはお袋が若い頃に貯めていた金や父親からの遺産のことも書かれていた。
具体的な数字を見た俺は、それをつかえば海外でやり直せると思い。あと何十年もある刑期に嫌気がさして、脱獄の計画に加わった。
脱獄後はお袋のもとへすぐに向かい、金を引き出させて命を奪った。あとは遠くへ逃げればいいだけだったのに……脱獄後の計画はおざなりで、捕まるまでそう時間はかからなかった。
鉄格子は今もなおゆっくりと迫っている。このまま潰されるのか、それとも止まってくれるのか。
鉄格子をにぎって押し出そうとするが全くの無意味だった。外に助けを求める。人の気配はない。
耳元で声が聞こえた。
「家族は恋しいかい?」