おもてなしバス

ショートショート

 ボロいアパートに住んで失敗した、と思った。
 風呂に入ろうと蛇口を回す。水が出る。だが一向にお湯はでない。
 今日は夕方まで雪が降っていたためかなり冷え込んでいた。そのせいでお湯が出なくなってしまったらしい。安いアパートにはたまにある。俺が体験するのは初めてだった。
 肉体労働で汗はかいているし、一日風呂に入らないというのは気が引けた。
 俺は湯気の一向に出ない蛇口の水を止めて、近場のスーパー銭湯に行くことにした。
 車で10分程度の場所にスーパー銭湯『おもてなしバス』はあった。銭湯や温泉は金が思ったよりかかってしまうため、旅行や遠出をした時にしか行かない。なので近場の先頭には初めて来た。
 外見はよくあるスーパー銭湯。料金も普通だった。
 俺は銭湯そのものに来るのが初めてではなかったため、特に注意して見ることなく、さっさと風呂場まで向かった。
 風呂場には看板があった。
 ”従業員がお背中を流すサービスを行っています。手の空いた従業員が声をかけることがありますのでご了承ください”と書かれている。
珍しいサービスだと思った。俺は若い女性に背中を洗ってもらう姿を想像するが、そんなわけあるか、と自分の安易な妄想にツッコミをいれた。
 ここは男湯なのだから来るのは男の従業員だろ。
 鏡の前の椅子に座り、お湯を身体にかける。冷えていた身体から湯気がでた。
 「お背中流しましょうか」
 肩をそっと叩かれ、男に後ろから声をかけられた。鏡に姿は写っていないことから右後ろにいるようだ。
 例のサービスだろう。俺は声をかけられるなんて運がいいな、と思った。
 「おお、じゃあお願いするかな」
 「かしこまりました」
 お湯の張った桶に手を入れながら、正面の鏡越しに従業員の顔をみた。一度桶に視線を戻して、今度はグルっと勢いよく首を相手に向ける。
 人の脚が生えた魚の着ぐるみがいた。
 「すみませんが、お背中を洗いますので、前を向いていていただけますでしょうか。」
 「魚の化け物?、その恰好はなにっ!?」
 「いえ、こちらは当銭湯のマスコット。バスちゃんでございます」
 バスちゃん(着ぐるみの従業員)の説明によると、魚のバスをモチーフにした、この銭湯のオリジナルキャラクターなのだと言う。
 魚に人間の腕と足が生えていて、浴衣を着ている。
 大きな目に、円弧状の口角が笑顔を不気味に見せている全体的に背後に立たれたら怖いタイプの着ぐるみだ。夢に出てきそう。
 俺は驚いてしまったが、周りの人はこの着ぐるみにあまり関心がないようだ。みんなそこにいるのが当たり前のように静かにしている。
 「では、失礼します」
 「おお、気持ちいいな」
 バスちゃんに背中をタオルで洗ってもらう。力加減が絶妙だ。俺はバスちゃんの腕前に舌を巻きながら、気になっていたことを問いかけた。
 「どうして着ぐるみでサービスをしているんだ」
 「人が背中を流すより、マスコットがするほうがお客さんが警戒しないだろう、という社長の方針なんです」
 そのマスコットは人より怖いんじゃないか、と思ったが口にはしないことにした。
 「それに……私どももやりやすいんです。背中を流すという役目をもったキャラクターになりきることで、いつもの自分から逸脱した感覚でこの時間を楽しむことができるんです」
 「なるほどね」
 キャラクターになりきることで、いつもとは違うやりがいを感じていることができるのか。俺はこのサービスに感心した。
 「気に入ったよ」
 「ありがとうございます。ぜひ、帰りのレジにてバスちゃんタオル、バスちゃんせんべい、バスちゃんドリンク等。グッズ展開していますので見ていってください」
 「バスちゃんが気に入ったわけじゃねえよ!」
 かみ合わない会話が終わると、バスちゃんはすっと2歩ほど俺の脇によけた。
 「なんだ、シャワーで流してはくれないのか?」
 「着ぐるみですので水を使うのはちょっと……」
 じゃあ、やっぱり着ぐるみは向いていないのでは? 
 「まあ、いいや。いいサービスだった。ありがとう」
 「では、お風呂を楽しんで」
 バスちゃんは一度ぐにっと、お辞儀をして背をむけた。
 去り際、着ぐるみから小さな本音が聞こえたのを聞き逃さなかった。
 「あーシャワー浴びたい」

タイトルとURLをコピーしました